Syoichi's Tumblr

Mar 21 2010

 そもそも編集という機能が価値を持っていたのは、情報を整理して届けるというニーズを一身に背負っていたからです。発信者が個人になり、伝達手法がWebネットワークになり、取捨選択機能がGoogleのPage Rankやブックマーク数といった集合知、あるいはRSSリーダーやTwitterといったツールによって達成されるようになったため、旧来型「編集」の価値が下がったのです。最近は「編集」という言葉が「恣意的な情報操作」というネガティブな意味合いを持ち始めてすらいます。

 要するに、情報は生の情報としてアーカイブされていればOK、あとは受信者が集合知やツールを利用してアクセスするよ、ということです。データベース消費ですね。

 じゃあ編集者っていらないの? ……というと、微妙。人間の編集が恣意的なのと同じレベルで、集合知(のアルゴリズム)やツール(のアルゴリズム)は恣意的だからです。

(中略)

 編集の価値は確実に存在します。生のデータを個々人が加工して受け取るのは負荷がかかるからです。すべての人間がRSSリーダーやブックマーク的集合知を駆使して情報を得られるわけではありません。ただし、注意しなければならないのは「編集の価値」と「編集者の価値」は異なるということです。

 要するに、コンテンツの制作や発信が個人でも可能になったのと同様に、編集も個人で可能になったわけです。個人製作コンテンツが増えれば稀少性原理からコンテンツで飯を食える人が減ります(あるいは、1人の実入りが少なくなる可能性が高くなります)。同じように、編集者として飯を食える人は減るでしょう(あるいは、1人の実入りが少なくなる可能性が高くなるでしょう)。

「編集者」という機能について - From The Inside